自分はファッションが好きだ(その2)

Art Comes Firstの二人は、おそらくそれまでも「sartorialist」http://www.thesartorialist.com/とかの写真で見てはいたと思うのですが、改めて「認識」したのは雑誌HUGEに掲載されたインタビュー記事を読んでからです。
彼らはインタビューの最中でも、手を休めることなく針と糸で服を作る作業をしているらしく、根っからの職人なんだなーと印象に残りました。
で、その後は写真とか動画とか見て、すごいと思い、挙げ句の果てはUAのポップアップショップに直行して、黒いシャツを購入した次第です。
彼らの服装は、ぱっと見普通なんですが、バランス感覚とかが絶妙なんですね。
何というのか、サイズ感とか、袖の長さとか、身幅とか、裾の処理とか、そういった実に細かい部分一つ一つの「詰め」が追い込まれていて、全体として何ともいえない雰囲気を醸し出している様に思われます。
それは、彼ら自身が自分たちの服を作ったり、加工したりできる技術があるおかげで、私たち一般の消費者が真似できる物ではありません。
実にうらやましい限りですね。

自分はファッションが好きだ

そうです。好きですね、服が。妻にあきれられるくらい。特にシャツが好き。
給与の大半をつぎ込んでいる
自分が着る服を選ぶときの最大のテーマは
「醜男でも格好良く、上品に見えるか」
です。
なんせ、子供時代の遠慮がないとき、中学生くらいまでは同じクラスの女の子に「ゴキブリ並」の扱いを受けていた程の「不細工」なので、最大の課題はそれです。
ゴキブリ並ってどういうこと?と思ったそこのアナタ。今自分がいるすぐ横にゴキブリが這って出てきたと想像してみてください。
大半の方は「うわっ」とか言いながら手をひらひらさせて飛び上がるでしょう。
「いいねぇー」そう、そのリアクション。まさにそれ。
てな訳で、最大の課題はそれ。
で、2番目が、それでいて
「攻めている」こと。平たく言えば、無難でないこと、かな。
うーん、それが難しい
簡単な話、スーツを着れば、誰でもそれなりに見えます。
チビでも、禿でも、デブでも、そしてブサメンでも。
それは、スーツの形と色が、男子をいかに格好良く見せることに最大限フォーカスした服だから。
女性に対するアンケートでも、スーツは最も好印象でトップくらいに入っていたと思います。
でも、スーツじゃああまりにコンサバすぎる。。

そんな自分がその着こなしに注目しているのが
ファッション・クリエイティブ集団、Art Comes Firstの2人です。

はっきり言ってお二人とも、決してイケメンじゃない(失礼!)
でも世界中のブロガーが写真を撮る程おしゃれ感に満ちています。
どこにその秘密があるのでしょうか。。

また更新を始めることにした

ずっとブログを更新してなかったんだけど、思うことあってまた書き始めることにした。
「思うところ」というのは、そのうち書いてみるつもり。
ただし、普通の書き方じゃない。原稿を手帳に書いてから、入力するというやり方だ。何か最近は紙にペンで字を書くのが快感になってきた。自由な書体でかけるし、漢字も思い出す。書いているのは、普通のノートとかじゃなくて、モールスキンの5000円位する「STAR WARS」特別版だ。表紙(ブラックの)にエンボスで、僕の大好きなヨーダが描かれている。
思えば、デジタルなツールが出るたびに、いろいろと試してきた。Palm Pilot、Mobile Gear。。とか。
でも、結局手帳とノートに戻ってしまう。
なぜなら自由度があまりに違うからだ。自分の想像力だけが制約になるわけだ。
ノートの扉にはこう書いた
「おまえの1日は、今日もクリエイティビティに満ちていたか?」
そう、自分は死ぬまで創造的に生きたいんだ。創造的で、自由に生きるんだ。

モノを大事にしよう

自分は今は縁があって、コンピューターのエンジニアの仕事をしています。
色々あって、運用をやっているのですが、(なので夜中に「トラブルです」とかいって、連絡が入ったりします。この世界、人間ではなく、マシンを中心に回っています)そんな中でもなるべく開発、システム作りをやるようにしています。
モノを造るのが基本的に好きなんですね。とても。
小学生の頃は、夏休みとかに工作をして、学校に持って行って自慢してました。小学生の3年の時は、身近な材料を使って自宅の模型を造って、みんなから「スゲ-」と言われました。雨樋とかもストローを半分に切って付けてたり、戸が開くとか、あんまり記憶に無いけど、結構いけてたんじゃないかと思います。何日かの間にいじめっ子の手で破壊されましたが。。
中学の頃はもう、模型作りに熱中して、タミヤの1/35のミリタリーミニチュアを山の様に造りましたし、プラ板とかパテを使って、改造や、自作にも取り組みました。
そんなんだから、親もたぶん「この子はモノを造るのが好きなんだ」とずっと思っていたんじゃないでしょうか。
そんな自分なので、物づくりを仕事にしている人は大変リスペクトしています。映画もそうだし、服とか、本とか、食べ物とかもう、全部そう。
モノを造ってくれる人がいて、初めてそれを使うことができる。
今の若い人(あ、言っちゃった)は、モノが豊かにあるのが当然なので、「金を払えば何でも手に入る」と思っているかもしれないけど、とんでもない。作ってくれる人がいないと、または自分で作らないと、決してそれは手に入らない。それは、人間的であり、文化的でもある、非常に高度なことなのだと思います。
数年前だったか、世紀末を題材にした映画が何本か公開されましたが、それらの描く世界では真っ先にモノを作る人、施設、会社とか工場が全く破壊されてしまっており、物を得るためには過去に作った物を「略奪」することしかない。そんな未来がこないためにも、物を、そしてモノを造るという行為を大切にして欲しいと思います。

TCP Wrapperの設定

サーバーにログインしたらシェルに対して嵐の様に、tcp wrapperからエラーメッセージがきて、まあ、無視して打鍵すればコマンドを実行する事はできるのですが、とにかく、「うざい」。
どうも接続サービスのサーバーの構成に変化があったようだ。。
そこで、エラーが表示されているサーバーのaddressを /etc/hosts.allowに追加した
hosts.allowの書き方には色々なやり方があるのだが、対象とすべきサーバーが20台以上ありそうなのと、ちょっと明確でなかったので、サブネットマスク方式で、大くくりで制御を入れた

ALL : xxx.xxx.xxx.0/255.255.255.128 : allow

うーん、こんなんで良いんだろうか。。自信ない。
本当は相手が明確なのであれば、具体的にホストを指定した方がよさそう。
ちなみに「tcpdchk」コマンドを打つと、hosts.allowとhosts.dennyの内容をみて、実際にあいてサーバーに接続して、設定が正しいかどうかを確認してくれる。実際に叩いてみると、過去に設定された内容について、多くのアラートが表示された。。うーむ。
また、「tcpdmatch ALL xxx.xxx.xxx.xxx」とコマンドをうつと、実際に現在の設定でそのサーバーが許されるのか、拒否されるのかが表示されるので、事前に別のサーバ上などで設定してみて確認することができる。
TCP Wrapperの機能はlibwrappというライブラリに実装されていて、自分の実装するサービスに直接リンクすることができる上、サービスを止めることなく設定変更を反映できることが利点とされている

FreeBSDにsudoを導入する

本当に久しぶりに更新だな。。。
自分のFreeBSDの環境も7.2にアップされました。
FreeBSDにはデフォルトでsudoが入っていないので、これを導入します。導入は簡単!

# あらかじめsuになる
# cd /usr/ports/security/sudo
# make clean
===>  Cleaning for sudo-1.6.8.12
# make install

無事インストールが成功したら、自分自身の権限設定をしないといけません。
設定はvisudoコマンドで行います。本当は
hoge ALL=/sbin/shutdown
と個別に設定するのですが、面倒なのでALLで書いちゃいます

# visudo
-- 省略 ---
# %wheel        ALL=(ALL) NOPASSWD: ALL

# Samples
# %users  ALL=/sbin/mount /cdrom,/sbin/umount /cdrom
# %users  localhost=/sbin/shutdown -h now

hoge ALL=(ALL) ALL

これで快適にsudoできるようになりました。
ついでにvimを導入してしまいましょう。
現在のvimはデフォルトでutf-8にも対応しています。
ただ、vimを入れると同時にgtk+等も導入され、結構時間がかかります(いらないのに)。
早速導入したsudoを使います。

$ cd /usr/ports/editors/vim
$ sudo make install

ワルキューレを観た

トム・クルーズワルキューレ」を観てきました。
第2次世界大戦の末期のナチス・ドイツで、ヒトラーを暗殺してドイツを崩壊から救おうとした軍人達の話です。ネットなどの書き込みをみても、この映画で初めて暗殺未遂事件があったことを知った方が多いようで、映画を観た後wikipediaなどで史実を調べて、ようやく「大変なことだったのだな」と分かったという話もあります。
確かに映画はかなり史実に忠実に描かれていますが、逆にそのために非常に淡々としてしまい、物語の背景にあるドイツの社会だとか、帝国ドイツ軍人がナチスで置かれていた状況などが全く説明されていない上、敗戦が濃厚になって徐々に戦火がドイツ本国に迫ってくる切迫感も不足しているので、彼らが苦悩の中から決断して、行動を起こすことも伝わりにくい内容になっています。
残念ですね。
主人公であるシュタウフェンベルク大佐自身の人生を第二次世界大戦初期からヒトラーの排除を考えるプロセスまで追うことで、当時のドイツの社会とか歴史をもう少し説明した方が良かったのではないかと思います。また、ヒトラーの側近連中も「イエスマンカイテルとか親衛隊司令官ヒムラ−など、全く説明不足なので、一緒に観た女房も「あの人どなた?」状態だったようです。
私は実は大学の専攻が近現代ドイツ史で、卒業論文としてこのヒトラー暗殺未遂事件を書いたので、非常に懐かしく、感慨深く映画を観ました。
ナチス・ドイツは決して一枚岩的な状態ではなく、ナチスがラディカルな新興勢力として「選挙によって」政権を握ったので、当初から軍隊を含めたドイツの貴族や上流階層とは微妙な関係にあったのです。そのためヒトラーは自分に忠実な第2の軍隊として親衛隊(SS)を組織したのですね。この映画に出てくる軍人達もほとんど名前に貴族を表す「フォン」というミドルネームがついていて、この事件の構造が、成り上がりの連中(ナチ)対旧貴族階級というものであることを示しています。
私がこの暗殺事件に興味を持ったのは、なぜ国が崩壊しつつある状況下においてなお、ドイツ国民は、あるいは軍人達はヒトラーに従ったのか、特に国防軍はドイツが自らをナチから浄化できるとすれば、暴力を持って実力行使できる自分たちにしかほとんど可能性がないことを知っていたにもかかわらず、それをしなかったのか、知りたかったからです。
大多数の国民は、ナチスに従うしかない状況にありました。また軍人連中は、軍人にしか理解できない「国家に対する忠誠」という概念にとりつかれていたり、保身に走っていたり、「ヒトラーが死んだら」抵抗勢力に荷担するという日和見的な考えから、何らアクションがおきなかった様です。そうした中で、クーデターという行為を起こすことは、よほどの勇気がないと、できなかったのではないかと思われます。
暗殺行為そのものは、映画にも描かれていましたが、複数の「偶然」の力によって、ほとんど成功しかかったにも関わらず失敗してしまいます。爆弾を仕掛けた会議室が、普段の掩蔽壕から地上の部屋に移されて、爆弾の威力がそがれたこと、もともと2つセットしようとした爆弾が邪魔が入って1つしかセットできなかったこと。爆弾の入ったカバンが邪魔だったので、テーブルの反対側に押し込まれてしまった事などです。でも、たとえヒトラーの暗殺に成功したとしても、大多数のドイツ国民がヒトラーを支持していたこの状況下で、クーデター側が巧くナチスを排除して、連合軍側と休戦できたかどうかはわかりません。
結果的には暗殺の失敗によって、ヒトラーへの抵抗勢力は一掃され、直接的に事件に関与していない「反体制派」の人々が多数殺されることになります。その中には、存命していたら戦後のドイツの復興に大きく貢献しただろうと思われる人も含まれており、非常に残念な結果になりました。この事件以降、ナチス体制は逆に強化され、ドイツ国内が破壊され、ベルリンが陥落するまで希望のない戦争を継続することになるのです。
悲劇ですね。
ドイツでもこの映画について様々な議論があり、一時は映画化できるかどうか、危ぶまれたそうです。でも、第二次世界大戦後60年以上たって、ようやく当時のことを映画にできるようになったのですね。それほど、ナチはドイツに深い傷を残したということだと思います。